悪の組織にだって抱える人員がいる。非を認めれば倒れる。倒れたら、上から下まで一同食いっぱぐれる。
だから彼らは非を認めない。倒れないように、悪事が見えないようにヴェールをかける。悪の組織の下っ端は、自分が悪事に荷担している事さえ知らない。
倒れたらどうなる。ある日突然、自分が悪の組織の一員だと知らされて、正義の味方に敗れそうなので近い将来仕事を失います。収入がありません。悪の組織の一員だからどこも手を差し伸べてはくれない。どうやって食べていく。家族はどう養う。
悪の組織は、人を苦しめることを仕事にしてるわけじゃない。仕事がたまたま人を苦しめることになっちゃっただけ。
人道に訴えたところで、解決につながらないばかりか悪の組織の悪性を強めるだけだってば。
本当に悪の組織を倒したいなら、
だけどどうも、神事がお笑いになるまでの過程が想像できない。こういうことは民俗学の本でも漁ればすぐにはっきりするのかもしれないが、何も資料がない状態で妄想を巡らせるのは楽しい。
仮に、その過渡期には神事として人を笑わせる行為をしていたとしよう。そのときに、うちなら、漠然と神を揶揄しているようなイメージを抱く。
だとしたら、中世以降、神仏を揶揄する風潮が顕著になった江戸期が過渡期にあたるのかもしれない。
それか、古来笑いは揶揄など含まない神聖な現象として捉えられていたと考えるとどうだろう。
何故神事として人を笑わせることを神への揶揄だと感じるのかと考えた時に、笑いは自分より弱い者、拙いものを見たときにも起こるものだからだと思う。嘲笑とは違う。例えば、小さい子が簡単な字を読もうと苦心する。ぐちゃぐちゃな絵を、それでも一生懸命描く。ちゃんばらの真似事をする。そんな風景を、「ほほえましいねえ」と言って見たりする。
最近、芸術や学問なんかの文化的な鍛錬は老後のためにしておくものでもあるんじゃないかと思いはじめている。
というのも、うちは「老人」が大嫌いだ。
これ見てる年配の方、ごめんなさいひとくくりにして。
正確には、うちが今まで見てきた「老人」像によってうちの中で固まった「老人」というイメージ、それが大嫌いだ。
物事を理屈で考えず、感情や経験に頼る。
創造性に乏しく、先例やマニュアルがないと動けない。
つまり自分の頭で考えるということを放棄している。
というのがうちが今まで最も多く見てきた老人のタイプ。
もちろん、はじめからこんな先入観を持ってすべての老人を見ているわけじゃない。
例外はちゃんといる。
その例外たちが、
化学の先生。絵の先生。世界史の先生。
みんな学問や芸術を自分なりに探求してきた人ばかりだ。
ちなみに同じ先生でも、家庭科の先生はうち的ステレオタイプな老人のイメージだった。
昔誰かが「ゲーム脳」なんていう荒唐無稽な論を残したよね。
それは概ねこういうものだった。
テレビゲームは思考を経ず、条件反射的にボタンを押す行為を繰り返すため、これに多くの時間を割くと大脳新皮質をなまらせて、思考力の乏しい子供になる。
まあゲームを批判したいだけの一面的な説ですわ。
ただ思考を経ない行為の積み重ねが大脳新皮質の働きを鈍らせるのは事実だろうね。
何が言いたいのかというと…
日々の日常生活だけでは、年を経るごとにまさに
思考を経ない行為の繰り返し
になる。
経験が浅いうちは、自分で試行錯誤を繰り返しながら最もいいやり方を覚えていく。
ただし経験をつんでいくと、その経験自体かなり頼れるものになってしまって、
「思い出す」行為こそすれ「考える」行為はしなくなる。する必要がなくなる。
家事労働然り、大半の貨幣獲得のための労働もまた然り。
ここへくると、芸術や学問の世界では経験は全くあてにならない。
芸術的な創造も、学問的な事例の追求も、その都度自分の頭で考えることを求めてくる。
若いうちは多少アホでもどうにかなるさ。美貌があるもの。
思考を放棄したって一枚の絵くらいにはなる。
だけどそんなものは年とったら消えうせる。
しわくちゃにたるんで見苦しい容姿と共に生きなければならない。
そうなったときに、その醜さによって空間を汚すような存在にだけはなりたくない。
絵になれなくても、文章になることだってできるのだから。
それには、日々思考を絶やさないこと。
そしてそれには、文化的なものに興味をもつこと。鍛錬すること。
そう思う。
それらを「存在」として捉えると、間違いが起こる。
どうしても、物質文明が大成した現状からの視点で、
本当はいないけど、昔の人は信じてた
ってなる。
但し、「信じてた」という証拠が現在にも残っているからには、
今はいないっぽいけど昔はどうやらいたらしい
と考えるほうがより当世人の感覚に近いものが得られる。
古にまつわるものを見るときに傍観者でなく登場人物になれる。
それには、彼らを「存在」でなく「理論」として捉えることだ。
例えば植物。
昔「神が宿る」とされた植物は、多く実際に薬効がある。
「身体に健康を与えてくれるもの」を、昔は神と呼んだ。
例えば葬儀。
定住している状況下で遺体を放置するとどんだけ不衛生な状態が訪れるか、想像にあまりある。
そうやって環境を不快にしていくものを、昔は魔と呼んだ。だから、魔から逃れることのできる方法で、各々遺体を処理した。
うちなんかはたまたま五行説には詳しいけど、
かの説は肝臓を病んだ者に黄疸が出ることをちゃんと知っている。
こんな側面もあったことを踏まえると捉えやすいかもしれない。
祭祀やら祈祷は、それらの「神」や「魔」の言葉に人格をつけた結果の、後付の行動だろう。
但しこれにも理論としての意味ならある。
生命活動に密接に関わるものから、ただ好奇心を刺激する程度のものまで、
ここでいう「理論」の意義は、最終的には「生をより快適に過ごすこと」に集約される。
要するに、
「その理屈に従えばより快適に暮らせる」ならその理論は真
「その理屈に従ったら逆に不快になる」ならその理論は偽
ってことになる。
今なら、
例えば病気にかかったら、祈祷に頼るより薬をのんだほうが多分治りがいい。
つまり、鬼神がいる前提で行動するとより不快になるから、理論は偽で、鬼神はいない。
でも昔なら、
特効薬自体ないから、神に頼む。そうすると「これで治るかもしれない」という期待と共に、不安・不快は小さくなる。しかももっとさかのぼると、薬自体が神だ。
当世人たちは鬼神のいる前提で行動してより快適な暮らしを得ているから、理論は真。鬼神はいる。
登場人物の思考回路はこんなかんじ。
いることもいないことも証明できないんだからさ
都合のいいように考えて利用するのがベスト。ってことだねd
まったくもってそう思うわ。
まず「自分らしさ」とかいう言葉を用いて宣伝する時点で老子のことわかってない。
「らしい」っていう概念自体存在しないのが老子なのに。
どこかの誰かが「誤解された仏教」なんて本書いてたけども、やっぱり一般人が広く知るようになるとどこかしらでひとり歩きが始まるんだよね。
別に悪いことじゃない。
誰だって信じるものをヒーローにしたい。人格がほしい。ストーリーがほしい。
更には、自分に味方してほしい。
そういうわけで、何らかのでかい思想を残した人が原典を鑑みられずに多数派の理想像が反映された姿に勝手になってくのは自然な現象だと思う。
そして、その勝手な像を支えに生きてた、生きてる人もいるんだろうから、
「それは間違った像だからこういうふうに正しなさい」
なんてことは、言うほうが間違ってるとも思う。
ただ、やっぱり「正しなさい」というわけではないんだけども声高に間違いを指摘する、そういった連中も原典のイメージの保存、ひいては人々の知的好奇心の喚起のためにはいなければいけないわけで、
うちは、
都合のいいイメージを用いつつも多くの人に共感を与える立場
と
幻想をぶち壊しつつもわかるヤツの知性だけを刺激する立場
とあるんであれば、迷いなく後者をとる。
さてさてそういうわけだから、
とりあえず「自分らしさ」にまつわる一人歩きした老子観をぶち壊しましょうか。
まず「らしい」って言うには、その「らしい」の内容を形作る要素が必要だ。
具体的に言葉にはできなくても、「なんとなくこういうのがあの人「らしい」」っていう要素が一つ以上存在しなければ、「らしい」という言葉は存在しない。
多分老子に目を通したことある人はこの時点でぴんとくるんじゃないかな?
老子っていちいち要素がある状態は嫌うんだよ。
道は常に名無し、とか、その無なるにあたりて用あり、とかね。
あと高低、美醜とかの概念の対比もあったね。高いという概念があるから低いという概念も生まれる。美しいという概念があるから醜いという概念も生まれる。
当然、らしいという概念が生まれれば、らしくないという概念も生まれる。
つまり、らしいという概念を持つことは、らしくなさを追放することでもある。
それって老子の最も嫌う「作為」じゃん。
多分、老子が自分らしさを発掘する書物だと誤解されたのは、
つまだつ者はたたず、とか、中を守るにしかず、とか「ありのままでいい」的なことを流行の言葉で言おうとした試みが失敗しちゃったせいじゃないのかなぁと考えるね。
「ありのまま」ていう概念はさ、要素に分解できないでしょ。
「何があなたの「ありのまま」ですか」ってきかれて、例えば「Aがありのままです」って答えちゃったら、Aじゃないのはありのままじゃないことになる、つまりA以外の思考含めた行動は、「Aではない」ことを理由に被質問者の中では否定されるわけだろう?その時点でその人はAという要素に振り回されている。つまりありのままではない。
まあそういう矛盾が生じるので、らしいこととありのままであることは同義じゃないんだよ。
うちの思うに、老子の言いたいアイデンティティ論は、
個性とからしさとか何も考えるな
ってことだね。
そういう概念を一切駆逐することが、爪立たない、中を守る、名が無い者になるってことなんでしょうな。
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