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しがない書生の日記でございます。
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今日ちらっと、基礎研究科目の先生から、漫才の語源は万歳、つまり長寿であることを祈る年始めの神事に由来しているときいた。

だけどどうも、神事がお笑いになるまでの過程が想像できない。こういうことは民俗学の本でも漁ればすぐにはっきりするのかもしれないが、何も資料がない状態で妄想を巡らせるのは楽しい。




仮に、その過渡期には神事として人を笑わせる行為をしていたとしよう。そのときに、うちなら、漠然と神を揶揄しているようなイメージを抱く。

だとしたら、中世以降、神仏を揶揄する風潮が顕著になった江戸期が過渡期にあたるのかもしれない。








それか、古来笑いは揶揄など含まない神聖な現象として捉えられていたと考えるとどうだろう。




何故神事として人を笑わせることを神への揶揄だと感じるのかと考えた時に、笑いは自分より弱い者、拙いものを見たときにも起こるものだからだと思う。嘲笑とは違う。例えば、小さい子が簡単な字を読もうと苦心する。ぐちゃぐちゃな絵を、それでも一生懸命描く。ちゃんばらの真似事をする。そんな風景を、「ほほえましいねえ」と言って見たりする。

また、珍解答や珍プレーは微笑みならぬ爆笑につながるが、同じ「拙きを笑う」といえ嘲笑とはまた別だろう。
ここが、難しい字をすらすら読んだり写真のようなデッサンをしたり、テレビで放送できるような試合をしたりとなれば、笑える要素はどこにもなくなるのである。

掘り下げて考えると、人間は常識を覆されると笑うのだ、というところに行き着く。
拙きを笑うときは、何かをするなら上手く、という常識。
そして笑いは、多幸感をもたらす。

多幸感と神聖さが結びつくのは当然だが、もしやその「不常感」も神聖さと結びついていたのではなかろうか。
知るは「治る」。常識は、知ること、つまり治るである。神は支配できぬから「非常識」だ。
自然が神なら、命を奪いもするから畏れ敬いもする。だけど命に別状のない、無害な非常識さだったら。…おそらくは、笑うに違いない。





なんか理論上は結論できてしまった。
でも多分はじめの妄想のが妥当な気がする。
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自己紹介:
だいぶ前に母屋がなくなったので前みたいな電波なのでなく普通に書く。
・1989,3,3生まれ、A型
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・お菓子を見るとときめく
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