忍者ブログ
しがない書生の日記でございます。
26 27 28 29 30 31 32 33 34
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

実はうち、声はかなりハスキーでねぇ…電話に出ても普通は「息子さんですか?」って聞かれるんだな。





最近なんやかやでカラオケに行く機会が多いです(´ω`*)

そんな中、

自分が一番高得点とれるのは機種によって福山雅治かラルクの曲だということが判明した(゚ω゚)・';・

女の子でそれはどうかと思うんですけど;;
PR
電車の中、隣の席で女の批評をしている

ブス男3人щ(゚д゚)

おまえらその顔で人のこと言う資格があるとでも?美しくなる努力をする義務が女にしかないと思ったら大間違いだ馬鹿野郎。

不細工男と付き合ってる可愛い女の子はよくみるけど
不細工女と付き合ってるカッコイイ男が全然いないところを見ると…

つくづく、

男ってやつぁ(´д`)

ってなるわぁ…

人は見た目じゃないとか言っときながら、切羽詰まるまではどうせ美人を横にはべらしたいと夢想するんだよな…

ここが女だったら、自分がたいして美しくもないのに美しい男を横にはべらせるなんて、恥じてしない。

身の程知れよ男ども
権利主張するまえに義務を果たせ。
鬼神…神、魔、幽霊など不可視の、しかしこちら側に何らかの影響を及ぼすモノたち。

それらを「存在」として捉えると、間違いが起こる。
どうしても、物質文明が大成した現状からの視点で、

本当はいないけど、昔の人は信じてた

ってなる。
但し、「信じてた」という証拠が現在にも残っているからには、

今はいないっぽいけど昔はどうやらいたらしい

と考えるほうがより当世人の感覚に近いものが得られる。
古にまつわるものを見るときに傍観者でなく登場人物になれる。
それには、彼らを「存在」でなく「理論」として捉えることだ。


例えば植物。
昔「神が宿る」とされた植物は、多く実際に薬効がある。
「身体に健康を与えてくれるもの」を、昔は神と呼んだ。
例えば葬儀。
定住している状況下で遺体を放置するとどんだけ不衛生な状態が訪れるか、想像にあまりある。
そうやって環境を不快にしていくものを、昔は魔と呼んだ。だから、魔から逃れることのできる方法で、各々遺体を処理した。
うちなんかはたまたま五行説には詳しいけど、
かの説は肝臓を病んだ者に黄疸が出ることをちゃんと知っている。
こんな側面もあったことを踏まえると捉えやすいかもしれない。

祭祀やら祈祷は、それらの「神」や「魔」の言葉に人格をつけた結果の、後付の行動だろう。
但しこれにも理論としての意味ならある。

生命活動に密接に関わるものから、ただ好奇心を刺激する程度のものまで、
ここでいう「理論」の意義は、最終的には「生をより快適に過ごすこと」に集約される。

要するに、
「その理屈に従えばより快適に暮らせる」ならその理論は真
「その理屈に従ったら逆に不快になる」ならその理論は偽
ってことになる。

今なら、
例えば病気にかかったら、祈祷に頼るより薬をのんだほうが多分治りがいい。
つまり、鬼神がいる前提で行動するとより不快になるから、理論は偽で、鬼神はいない。
でも昔なら、
特効薬自体ないから、神に頼む。そうすると「これで治るかもしれない」という期待と共に、不安・不快は小さくなる。しかももっとさかのぼると、薬自体が神だ。
当世人たちは鬼神のいる前提で行動してより快適な暮らしを得ているから、理論は真。鬼神はいる。

登場人物の思考回路はこんなかんじ。

いることもいないことも証明できないんだからさ
都合のいいように考えて利用するのがベスト。ってことだねd

なんか一番長いのは宗教家と研究者。
で短いのが詩人…と。

ストレスの有無によるみたいです(´А`)

なんでこんな話題に入ったかというと、

中世の歌人(六条藤、六条源、御子左中心)の系譜をまとめてみると、長生きなヒト多(゚д゚;;)!!てことに気づいたのさ。

歌人は長生きするけど詩人は早死にするのか(=ω=)

あくまでも統計だが。



この先つきつめて考えると以前書いた随想とかぶりだすからやめよっと
昨日授業で、一般の老子観がかなり実際とかけ離れてるって話がちょっと出たんだけどね、

まったくもってそう思うわ。

まず「自分らしさ」とかいう言葉を用いて宣伝する時点で老子のことわかってない。
「らしい」っていう概念自体存在しないのが老子なのに。

どこかの誰かが「誤解された仏教」なんて本書いてたけども、やっぱり一般人が広く知るようになるとどこかしらでひとり歩きが始まるんだよね。

別に悪いことじゃない。
誰だって信じるものをヒーローにしたい。人格がほしい。ストーリーがほしい。
更には、自分に味方してほしい。
そういうわけで、何らかのでかい思想を残した人が原典を鑑みられずに多数派の理想像が反映された姿に勝手になってくのは自然な現象だと思う。
そして、その勝手な像を支えに生きてた、生きてる人もいるんだろうから、
「それは間違った像だからこういうふうに正しなさい」
なんてことは、言うほうが間違ってるとも思う。

ただ、やっぱり「正しなさい」というわけではないんだけども声高に間違いを指摘する、そういった連中も原典のイメージの保存、ひいては人々の知的好奇心の喚起のためにはいなければいけないわけで、
うちは、
都合のいいイメージを用いつつも多くの人に共感を与える立場

幻想をぶち壊しつつもわかるヤツの知性だけを刺激する立場
とあるんであれば、迷いなく後者をとる。


さてさてそういうわけだから、
とりあえず「自分らしさ」にまつわる一人歩きした老子観をぶち壊しましょうか。

まず「らしい」って言うには、その「らしい」の内容を形作る要素が必要だ。

具体的に言葉にはできなくても、「なんとなくこういうのがあの人「らしい」」っていう要素が一つ以上存在しなければ、「らしい」という言葉は存在しない。

多分老子に目を通したことある人はこの時点でぴんとくるんじゃないかな?
老子っていちいち要素がある状態は嫌うんだよ。
道は常に名無し、とか、その無なるにあたりて用あり、とかね。
あと高低、美醜とかの概念の対比もあったね。高いという概念があるから低いという概念も生まれる。美しいという概念があるから醜いという概念も生まれる。
当然、らしいという概念が生まれれば、らしくないという概念も生まれる。
つまり、らしいという概念を持つことは、らしくなさを追放することでもある。
それって老子の最も嫌う「作為」じゃん。

多分、老子が自分らしさを発掘する書物だと誤解されたのは、
つまだつ者はたたず、とか、中を守るにしかず、とか「ありのままでいい」的なことを流行の言葉で言おうとした試みが失敗しちゃったせいじゃないのかなぁと考えるね。

「ありのまま」ていう概念はさ、要素に分解できないでしょ。
「何があなたの「ありのまま」ですか」ってきかれて、例えば「Aがありのままです」って答えちゃったら、Aじゃないのはありのままじゃないことになる、つまりA以外の思考含めた行動は、「Aではない」ことを理由に被質問者の中では否定されるわけだろう?その時点でその人はAという要素に振り回されている。つまりありのままではない。
まあそういう矛盾が生じるので、らしいこととありのままであることは同義じゃないんだよ。

うちの思うに、老子の言いたいアイデンティティ論は、
個性とからしさとか何も考えるな
ってことだね。

そういう概念を一切駆逐することが、爪立たない、中を守る、名が無い者になるってことなんでしょうな。













カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
最新CM
[10/09 はちみつ兄さん]
[06/19 パグさん]
[05/05 はちみつ兄さん]
[10/20 ★矢口真理 スキャンダル動画流失!!]
[04/08 パグさん]
最新TB
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター
ブログの評価 ブログレーダー
プロフィール
HN:
七生踊
年齢:
36
性別:
女性
誕生日:
1989/03/03
職業:
主婦
趣味:
作画、作曲、漢籍
自己紹介:
だいぶ前に母屋がなくなったので前みたいな電波なのでなく普通に書く。
・1989,3,3生まれ、A型
・デフォルトでミニマム状態
・お菓子を見るとときめく
・昆虫を見てもときめく

"七生踊" WROTE ALL ARTICLES.
PRODUCED BY SHINOBI.JP @ SAMURAI FACTORY INC.
忍者ブログ [PR]